[008]    箍を外した     P助様  

こちらは[002]箍が外れたの共鳴作品です


 
 ぱた、ぱたたっ。
 視界の先で、小さな水たまりが形成されていくのを見つめながら、ガルルは歯噛みした。
 よく掃除の行き届いた床は必要以上に冷たくて、背筋がぞくりと反り返る。
 怯えではない。この震えは、むしろ怒りによるものだ。仕事部屋の大きな窓、そこから入り込んだ柔らかい日差しすら忌々しい。ガルルは犬歯を剥き出して、紅の瞳で自分の腹の上に乗っている人物を睨みあげる。
 しかし、睨まれた当の本人は、凄絶なまでの威圧感がこめられた視線にすら薄く笑みを浮かべてみせた。
 そうだ。そういう男なのだ。この、ケロン軍大佐という男は!
 「大、佐っ……!」
 一層強く歯を噛み締めて、ガルルは体を動かそうと試みる。だがほんの片腕すら満足に動かすことができないくらい、ガルルは見事に体を抑え込まれていた。さすがというべきか、大佐が体重をかけてくる位置は正確で、効果的だ。優れた指揮能力や素早い判断力のみならず、大佐は、自分の身を守る為に必要な能力をしっかりと備えた人物だった。
 だが、そのことに対する日常的な好感と現在の状況を混同するべきではない。ガルルは再び、大佐の下から逃げ出そうと身をもがかせた。
 いつまでも諦めを見せないガルルの様子に、大佐も息を弾ませながら困ったように笑みを深くした。
 「はっ……はは、往生際が悪いね、ガルル中尉」
 「それは、こちらの台詞……です! いい加減、諦めて下さいっ」
 「諦める? まさか」
 そう言いながら、大佐は右手に握る小瓶をガルルに見せつけた。ガルルの表情がこわばる。
 小瓶の中では、粘性の高い液体がゆったりと泳いでいた。それに合わせて光がちらちらと反射する。
 大佐は戯れにガラス越しの光を楽しみ、だが、不意に顔を険しくした。
 「まさか、ね。そんなことをしたら、君は――」
 ぐっと顔を下げて、囁く。
 「――……君は、この薬を僕に飲ませるつもりだろう?」

 「当、然、ですっ!!!」
 ――ちらりと反射する光に紛れて、小瓶の裏の渦巻き模様が嫌味ったらしく笑った気がした。




箍を外した




 「いいから大人しくその薬をお返しなさいもしくは今すぐそれを飲んで下さい、そして貴方も一度私の気持ちを味わってみればいいのです! 遠慮はいりませんよ、さぁ大佐!」
 「回答はどちらもノーだよ。それにあれは不幸な事故だった、そうだろう? 君には同情するが、僕が同じ目に合わなければいけない道理はないはずだガルル中尉……おっと!」
 跨る大佐に業を煮やして、ガルルがとうとう渾身の力で大佐を押しのけた。そのまますかさず手を伸ばす。しかしそれを身軽にかわされて、行儀悪くも舌打ちをこぼした。大佐は、ガルルの動きをすっかり読んでいたらしい。
 ガルルは体勢を整えながら、大佐が大事そうに抱える小瓶を憎々しげに睨みつけた。
 ああ、なんの冗談だろう。
 すべての元凶はそう、忘れたくとも忘れられないあの事件のせい。
 先日、気紛れでケロン軍本部へ立ち寄ったという黄色い男の、これまた気紛れのイタズラを、ガルルはもろに喰らってしまった。
 そしてそのイタズラというのがまずかった。
 もともと公私の区別の得意なガルルにとって、ちょっとやそっとのイタズラは何も障害たりえない……はずだった。
 例えば外見に影響が出るだけならば、彼は全く気にしない(黒板消しを頭からかぶるだとか、顔にらくがきをされるだとか、そういった類のもの)。
 また、体内に変化が起こるものであっても、彼がその効果に振り回されるようなことはまずない(いつか、味覚を色々まぜっかえされたときはさすがに辟易したが)。
 だが、両方合わさった効果が出るとなると話は別だ。
 何と言ったって耳だ。耳が生えた。オマケに尻尾も生えた。言わせてもらうが、そんなオマケは必要ない。生えてしまったものに文句を言っても仕方がないのだが。
 これが外見だけの変化ならば我慢もいったろうが、性質の悪い事に、生えてきた耳にも尻尾にも余さず鋭敏な触覚を備えられていた。これにはガルルの顔も渋くなろうというものだ。ほんの少し触れられるだけでも過敏な反応を示してしまう。たとえば、そう、ケロン人が幼年体を卒業するほんの少し前、シッポがなくなりそうな時期にシッポを強く握られてはたまったものではないだろう。ああいう具合に敏感なのだ。
 おかげで、効果が消えるまでの数日間、ガルルは軍内部を迂闊に歩けなくなってしまった。共用スペースへ一歩でも踏み出したが最後、どこからともなく女性が集まってくる。嬌声に囲まれて部署移動すらままならない状況など、人望厚く、男女問わず人気の高いガルルであってもさすがに初めての経験だった。いつもの3倍モテていました、とは、空気の読める水色の部下の談だ。
 そして、はっきり言ってこちらも必要ないオマケだったのだが、どこに理性を捨ててきたのやら、大佐にまで襲われかけたのだ。
 …………訂正だ。しっかりがっつり襲われた。
 「だいたいねえ、わざわざクルル曹長に頼んで同じ薬を作ってもらうだなんてどうかしてるよ! しかも仕返しのためだけに、なんて。大人げないと思わないかね。というか、まず、仕返しにしても手段を選んだ方がいいと思うんだけど、ガルル中尉?」
 いたずらっ子を諭すような呑気な声に、ガルルは額に青筋を浮かべた。
 確かに全ての元凶はクルル曹長だ。だが、自分のこの行動の原因を作ったのは大佐なのだ。あれだけ人に好き勝手なことをしておいて!
 極力避けたい取引をしてまで同じ薬を手に入れ、それをこっそり飲ませて意趣返しをしようと思ったのだが、腐っても大佐、こういうときの危機察知能力は以外と高い。揉みあいになって、体勢を崩された挙句に薬まで奪われてしまった。
 「大人げですって? 大人げを無くして襲いかかってきたのはどこの誰だったか、忘れたとは言わせませんよ、大佐! さあ、それを返して下さい」
 珍しく苛立ちを露わにしていたせいか、ガルルは自分が墓穴を掘ったことに気が付いていなかった。
 「……」
 「……大佐?」
 「……ふっ、そうだね、ガルル君……」
 俯き、急に静かになった大佐に、ガルルは冷静さを取り戻した。言い過ぎてしまっただろうか。今のところそんな覚えはないが、何か気に障ることを言ってしまった可能性は否定できない。
 「大佐……」
 ガルルが気遣いの言葉をかけようとした、瞬間だった。

 「あの日の甘い思い出を忘れてしまうなんて、僕にはできないよガルル君!」
 「よろしい、忘れさせてあげましょう全力で」
 ――直後、その日一番の爆音がケロン軍に響き渡ったという。



 もはや目的を間違えた2人の戦いは、清々しい程に手段を無視しながら盛大に続いた。
 途中で側近やプルル看護長や事務局の者が様子を見に来た気もするがよく覚えていない。
 そんな実りのない戦いは、だが、ガルル中尉が床に膝をついたことで終わりを見せた。
 「くっ……連日の仕事の疲れがっ……」
 肩で息をしながら、無念と言った風にガルルが言葉を吐き出す。
 同じく息を荒げたまま、大佐がにやりと笑う。
 「ふ、鍛え方が足りないのではないかね、ガルル中尉?」
 「貴方からの、仕事という名の無茶振りを完璧にこなした結果がこれですよ! どれだけ私の睡眠時間を削られて……、」
 文句をぶつりと途切れさせ、ガルルは立ち上がった。
 そして息を整えながら、手近なところから大佐の部屋の片付けをはじめた。唐突な行動に、大佐が目を丸くする。
 「……おやおや。諦めたのかい?」
 「ええ」
 「君が自分に課したミッションを放棄するとは珍しい」
 「放棄ではありません、これも予定の内です」
 「そうなの?」
 「はい。タイム・オーバーです。これ以上無駄に騒いでも埒があかないし、何より」
 とん、と集めた書類をひとまとめにして、ガルルは大佐に向き直った。
 「……何より、貴方の任務に障ります」
 「……!」
 大佐は、そのまま無言で片付けを続けるガルルをしばらく見ていた。
 机の位置を直す。椅子のクッションを戻す。はずみで床に落ちた本を拾い上げ、本棚の崩れも丁寧に揃えていく。その手つきはあくまで優しい。
 奇跡的なことに、大佐の愛用するマグカップは無事だった。飛び交うクッションや宙を舞う書類の攻撃を見事にくぐり抜けて、今は机の上でおとなしくしている。中の液体も無事なままで。
 そうだ。このカップ。
 このマグカップの中に薬を入れられていたのだった。異変に気付いた大佐は咄嗟に机に戻し、失敗を見て取ったガルル中尉が小瓶から直接大佐に薬を飲ませようとして――その後の経緯を経て、御覧、このありさまだ。
 大佐は握りっぱなしだった小瓶の存在を思い出し、そっとポケットに滑り込ませた。
 そして散らばる書類を拾い集めるガルルの後ろ姿を見つめる。
 大事なことを思い出した。大佐は口の中で呟いた。
 ほんの小さな思いつきにすぎないが、だが、大事なことだ。
 今日。いや、今だ。今、きちんと伝えなくてはいけない。
 薬入りのカップを片付けようと伸ばしたガルルの手に、大佐の手が重なった。動きを遮られて、ガルルが顔を上げる。
 「大佐?」
 単純な疑問を浮かべるガルルの手を退けさせると、大佐はカップを持ち上げる。
 そして、ガルルが止める間もなく、中身を一気に飲み干した。
 「大佐! な、何をっ」
 「うーん、あまり美味しいものではないな……ん? おお、これはこれは。我ながら手触りのいい耳と尻尾が生えたことだ」
 頭に手をやり、自分の背後を確認して、最後にぴこりと耳を揺らす。
 先日のガルルの姿格好、そのままだ。
 すっかり言葉をなくしているガルルに、大佐は躊躇いのない笑顔で笑いかけた。
 「これで、君の“仕返し”が済んだわけだ。どうかな、少しは気が晴れたかい?」
 「え……」
 「……君には感謝しているんだよ、ガルル中尉。本当だ。今日はね、君が僕の部屋に来たらそれを伝えようと思っていたんだよ。我ながらいい思いつきだ。君への感謝を表すためなら、僕にとって、こんな薬を飲むことくらい何ら苦ではないというのに――だというのに、せっかく思いついたことをすっかり忘れて、それどころかまた君に迷惑をかけてしまうところだった」
 ガルルは一瞬息をのんだ。そして、慌てて姿勢を正した。
 「そんな、大佐、迷惑だなどと! 私こそ私情に駆られて大変な失礼を、」
 「出会い頭に一服盛られるだなんて、さすがに思わなかったからねえ」
 「も、申し訳ありま――」
 「ということで、えいっ!」
 「!?」
 謝罪の言葉の最中、それは完全にガルルの油断だった。
 口にめがけて飛びかかってきた液体を、思わずごくりと飲み下す。
 ガルルの喉が鳴るのと、ガルルが大佐の手に光る渦巻き模様のついた小瓶を視認したのは、同時だった。
 すぐに覚えのある感触を感じた。懐かしくも、忌まわしい感触。慌てて頭に手をやれば、動物の耳がふさり、とその存在を主張していた。
 「あはは、お揃いだね。しかしやはり君の耳の方が手触りが良さそうだ。僕のは、ほら、少し毛が短いようだから。ねえガルル君、触ってもいい? ねえ?」
 「〜〜貴方、と、いう方はッ!!」
 ぶつんと何かが切れる音が聞こえた気がした。
 ガルルは書類の角を美しく揃えると、彼にしては乱暴な仕草で私物をひとまとめにする。
 そして踵を打ち鳴らして扉の前まで歩き、開閉スイッチに拳を叩きつけて、最後に一度だけ振り向いた。
 「もう知りません! 今から、ええ、たった今から1週間の休暇をいただきます! その間は家電だろうとケータイだろうと、実家の親父からの電話にも部下からの緊急通信にも一切応答致しませんのでそのおつもりでっ。失礼します!」
 「え、ちょ、ちょっと? ちょっとした悪ふざけだろう? ほら、今回は僕も同じ目にあっているわけだし……ちょっと、ガルル君! ガルルくーん!」
 その後、ポコペンへ向かうガルル中尉の宇宙船と、側近に懇々とお説教をされる大佐の姿が目撃されたという。




作者コメント 
素敵な猫耳中尉に萌えて書きはじめたはずなのに、どこが大ガルなのかという作品になってしまいました。
素敵な雰囲気を崩してしまわないか心配ですが、でも、書いていてすごく楽しかったです。
中尉はおそらく地球にいる弟のところへ癒されにいったのでしょう。
大佐には、ぜひ、弟経由で連絡をとることをオススメしたいところです。笑。

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